■エッセイ
小 山 研 一
樹木や農作物で一度地上部分を収穫されてしまった後の、残った切り株から生えてくる芽を「ひこばえ」というのだそうだ。
雑木林を歩くと、切り株を中心に3~4本の幹を特つ樹木をよく見る。人間に一度切られてしまったことでかえって複数の幹を特つ立派な姿に育ったのである。こうしたひこばえを見ると、いつも植物の再生能力に感心させられる。
11月の中頃、田んぼのあぜ道をジョギングしていた時の事。ふと、田んぼを見ると稲刈り後の切り株は皆、30センチくらいの緑色のひこばえを生やしていた。
まあ、いつもの光景と思って通り過ぎようとしたのだが、よく見ると何とそのひこばえ達がそれぞれ稲穂をつけているのに気付いた。
それぞれ小さな実がわずか数十粒程度ずつだが、確かに稲籾をつけている。
九月の稲刈りから僅か2か月、一度収穫され切り株だけになってしまった稲は、根に残った養分で新たに芽を出し葉をつけた。そして、冬に向かって日に日に短くなる日照を最大限取り込み大急ぎで光合成をし、養分を貯め、花を咲かせ、稔らせたのに違いない。
人間にとって嬉しい収穫の時も、稲にとってみれば大災難、子孫を残すべき大切な種を全て失う緊急事態だ。何とかしてリカバーしないと絶滅してしまう。
樹木などの多年性の植物であれば、慌てなくても取り敢えず来春に期待しながら冬を越すことが出来る。しかし、一年性の植物にとっては、成長が中途半端な段階で冬を迎えてしまえば、それまでの努力は水泡に帰してしまう。
何としても、種を作ることだけが唯一の越冬手段である。迫りくる冬を前に、短期決戦で種を残した底力に感心した。見事な危機対応力である。
われら人間も含め、全ての生き物にとって種の保存は究極のテーマだ。生存競争と自然淘汰の中で生き残れなかった生物は数多くいた。しかし、今生きている者にとっては逆に先祖をたどれば、はるか遠く地球上に生命が誕生したその時まで、連綿と途切れることなく命のリレーが続いてきていることは間違いない、我らはみんな様々な逆境を乗り越えてきた進化の勝ち組なのである。
かつて恐竜を滅亡させた地球環境の激変や氷河期、害虫、疫病など様々な逆境を生き抜いてきた記億は遺伝子にしっかり刻まれており、普段は忘れられていても緊急事態がスイッチとなって目を覚ますのだ。人間も幼いころに栄養不足で育つと飢餓対応の遺伝子のスイッチが入ってしまい、栄養をため込んで肥満になりやすい体質になってしまうそうだ。
様々な環境変化に対する適応力は過去の進化の勝ち組としての現生物すべてが特つ能力なのだろう。
稲は長年にわたり栽培され人間に食べられるために品種改良を続けられてきた。人間にとってひこばえが種もみを作る必要性はなくなっているのだが、種としての危機対応プログラムはしっかりと遺伝子にきざまれており、稲刈りと同特にスイッチが入り、復元能力を発揮したのだ。
最悪な条件下でも、何とか種を残すひこばえに生命の逞しさを見た気がした。パンデミックで世界的危機となった昨今、人類の眠れる免疫能力が覚醒して早く乗り越えられるよう願うばかりだ。
さて、一方で人間に庇護されない生物たちにとっての環境は現在、かつてないほどに脅かされてきている。地球温暖化はじめプラスチックごみなど人類の欲深い増殖は多くの生命種にとって最大の脅威となってきている。
さらに人類はついに、進化の大切な記憶が詰まった遺伝子にまで手を付けて己の欲望のために改造するようになってしまった。これは、地球上の多くの生物たちにとって最大の脅威、緊急事態である。
もしかすると地球環境という生命の大きな集合体からみれば、この脅威に対する復元プログラムは既に発動されているのかもしれない。
「人類を減らせ…」と。
* * * * *
白衣の下スラリと伸びた美脚にピンヒールの靴。
美貌の女医がきっぱりと言い放つ、
「大丈夫、わたし絶対失敗しませんから!」
ああ、なんて頼もしい。あんな女医さんに手術されたい。全国の男性諸氏に大人気の医療ドラマが終了した。とにかくリアルな手術シーンと如何にも本当っぽい難解な医療用語、世相を取り入れたタイムリーなストーリーに引き込まれた。
患者を忘れ権力闘争に明け暮れ、彼女を妨害しようとする白い巨塔の医師たち。彼らをものともせず神業的なスキルで次々に難手術を成功させるだけでなく、病院組織の問題までバッサリと切りまくる「フリーランスの医師」は、数ある病院ドラマ随一のニューヒロインだった。
生身の体を切り刻み、症状を劇的に改善する「外科医」は、病院の中でも花形だと思うが、現実は常にリスクと隣り合わせで相当強いメンタルを要求される職業だと思
う。絶対に失敗は許されないけれど、人間に絶対はあり得ない。
もう、ずいぶん以前になるが、僕も胆石の手術を受けたことがある。腹腔鏡手術と言ってお腹に穴を開けてファイバ
ースコープを入れ、覗きながら行う手術だった。
手術は初めてだったので不安がる僕に対して、執刀医の先生は「開腹と違って身体の負担が少なく、術後の回復も早い」などと一通りの説明をしてくれた。
それでも、心配する僕に対し先生は言った。
「大丈夫ですよ、わたし今までにもう100例以上の同様の手術をやってますから。結果も、95パーセント以上成功してます」
「え、その5パーセントはどうなったんですか」
その先生は評判の高い名医なのだが、その分合理的で斟酌無しの説明をする方の様だった。僕の動揺を見透かしたように、こう続けた。
「誤解しないでください。患者さんの状況は千差万別で、高齢の方やほかの病気を併発している方、実際に覗いてみたら癒着がひどく切除困難な方など当初の予定通りい
かないケースは、どうしてもあります。失敗するわけではありませんよ」
僕は少し不安を残しながらも納得して同意書にサインしたのだった。確かに100パーセントは現実にはないのかもしれない。
ドラマの女医が100パーセント成功するのは、不測の事態にも対応できる次善の策を用意しているからである。手術続行不可能な問題を前に、皆が追い詰められ、あき
らめかけたその時に、彼女は高らかに宣言するのだ。
「術式変更、これより○○式○○を行う」
この次善の策がどれだけ意外性があって難しいか、早い段階から周到に準備されていたかがドラマの見せ所だ。毎回、視聴者は予想を超えた展問に喝采をおくるのだった。
この「次善の策」は外国映画だと「プランB」と呼ばれたりしていて、アクション映画ではお約束の展開である。例えば人質救出作戦で、敵に脱出ルートを見披かれ
て動揺するチームに対し、ヒーローは言う。
「心配するな、これよりプランBに移る」
すると、意外なところにルートがあったり武器を調達出来たりして(しばしば、「あり得ねーだろ」と突っ込みを入れたくなるような、ご都合主義なのだが)みごと危機
を突破できるのだった。要するに、「計画変更」と言わないのは「想定内」だから安心しろという事だ。
でも、考えてみるとプランBを用意しておくのは、我々が仕事を進めるうえで必須の事だと思う。
僕らのプロとしての仕事も失敗が許されない。品質が良いのは当たり前、決められた予算内で完成させなければならないし納期は絶対である。日々、ぎりぎりの条件
で仕事をこなす僕らにとってプランBは必須で、これを用意しておける事がプロの条件と思いながら仕事をしている。プロに失敗がないのはこれがあるからだ。
僕の胆石手術の場合も、無事成功に終わったのだが術後の先生の説明で、
「あなたの場合、お腹に手術跡が3か所あるでしょう。当初、2か所だけで十分な予定だったのですが、覗いてみると予想外に内臓脂肪が沢山ついていて難しかったの
で、もうーか所開けさせてもらいました。」
と、言われた。
このお陰?で、その後僕は発奮してダイエットに励み、運動する習價も出来て以前より健康になった。さすがはプロの仕事。先生のプランBは副次的な効果も生んだの
であった。
さあ、新型コロナ不況で受注が激減する昨今、次の会議ではこう宣言しよう。
「心配するな、これより経営計画はプランBに移行する」
* * * * *
宇宙にはブラックホールが存在し、そこでは、あまりにも重力が強いため、光でさえ一度吸い込まれたら二度と出られないという。
弊社にもブラックホールのような部屋がある。
元々は社長室だったのだが、あまりにも使い勝手が悪かったためにすぐに使われなくなり、40年近く物置になっている部屋だ。
一定期間保存が必要な会計書類や小切手帳の耳、通帳、手帳、経営指針から古いパソコンまで、スグに処分して捨ててしまうのがはばかられる物たちが「とりあえず」そこへ運び込まれているのだが、その「とりあえず」が永遠となり処分されることなく溜まり続けていた。
最近時間が出来たので、遂に意を決して整理をはじめた。
一応目を通してから捨てることにしたのだが、いや~。懐かしい思い出が出るわ出るわ。「このお客様はこんな昔からお取引いただいていた…」「大して儲かってないのにバブルに浮かれてたな」「設備のこの借金は大変だったけど、変わるきっかけだった」「ああしておけばよかったのに」「あんな社員がいたな」「リーマンショック・大震災は大変だったけど半年くらいだったなあ」などなど、思い出がよみがえり、さっぱり整理が進まない。
以前観たSF映画でブラックホールに吸い込まれながら時間が逆行して、過去がフラッシュバックするシーンがあったが、まるでそんな感じになってしまうのだった。
現在のコロナ禍もいつかは収束して思い出になるときが来るのだろうが、その時に後悔しないように今を大切にする戒めとすることにした。
* * * * *
海外の刑事ドラマの一シーン。
ある地域に逃げ込んだ逃走犯を追うチームのボスが叫ぶ。
「おい、地図を出せ」
部下達はポケットから一斉にスマホを。
「そんなんじゃねえ。紙の地図だよ。印刷したやつ」
部下が慌てて調達した地図を車のボンネットに広げると、広域の道路のつながり、工場や商店など地域の利用状況、住人の属性など様々な要素を書き込み対象地域を絞り込んだ。
そうだ、データベースの検索で情報を絞り込んでも最終的にチームで情報を共有しつつ推理を深めるのは、やっぱり紙の地図だ……。
今年一月に「紙の魅力を科学する」というテーマで研究をしている先生の講演を聞く機会があり、紙メディアは電子メディアよりも「深い読み」や「発見力」をもたらすという研究結果を聞いたことを思い出して思わず笑ってしまった。
確かに全体を俯瞰して分析し、思考を深め、仮説を立てるには紙に勝るものはないと思う。
最近はとにかくペーパーレスの流れで、何かと「紙の印刷物」は、分が悪い。
けれども、小説や漫画はやっぱり頁をめくらないと読んだ気がしないし、取扱説明書も紙でないと理解に時間がかかり結局プリントしたりする。古本屋で見つけた本に書き込みなど前の持ち主の痕跡があると何だかうれしい。団体の会報もあまり読まれないからと紙を廃止してデジタルのみで配信したら、もっと読まれなくなった。瞬時に検索でき動画のあるタブレットも良いけれど、子どもたちの想像力と創造力を育むのは紙の教材では? こんな風に思うのは時代に逆行しているのか。
紙は人類とは千年以上のお付き合い。我々は目で読んでいるだけでなく手で触れたり書き込んだり、無意識に五感をフルに使って情報を得るものだという。
時代に逆行するつもりは全くない。ネットの便利さ抜きには一日たりとも暮らせないし、人一倍新しいもの好きではあるけれど、ちょっと立ち止まって紙の魅力を再認識するのも良いかもしれない。
これからはデジタルの便利さを積極的に活用し紙メディアとの連携で、新しい可能性を考えていかなければと思う。一方そのためには人間の感性にフィットする紙の印刷物の役割を知らしめることは私たちにしか出来ない大切な仕事だと感じている。
ところで冒頭のシーン、これからのボスは
「AIを使え!」
と怒鳴るのだろうか?
ボス、つまんねーヤツだなあ。
* * * * *
今からもう5~6年前になるだろうか。九月初めドライブの帰り道でのこと。道端の土手がピンク色の花で彩られていた。
近づいて見ると、30センチくらいの細長い花茎の先にピンク色の小さな花が房状に咲いている。それが密生して約3~40メートルずっと土手を埋め尽くしていた。
誰かが栽培しているものなのか、自然に生えたものなのかわからないが、初めて見る光景だった。その光景は強く印象に残り、帰ってから図鑑などで調べたがよくわからなかった。
ある動植物が何という種なのか決定することを「同定」という。植物の場合、花や葉を見て科名や属名についておおよその見当をつけて、図鑑の写真や絵と突き合わせ、説明を読んで決定する。しかし、見た目はそっくりなのに全く違う種がいたり、同じ種の中でも変異・個体差があり全く同じ姿のものはいないので一筋縄ではいかない。そして知識がなくて全く見当もつかない場合などは、同定はとても難しい作業になる。
詳しい植物図鑑になると、巻頭に同定の方法が載っているのでこれを利用して葉の形、つき方や花の構造、特徴を一つ一つ確認して正解にたどり着くまでイエス・ノーを繰り返すのだが、専門用語が多く知識と根気が必要である。
その時はピンクの花が何という種なのか、結局わからなかったけれどスマホで撮った写真を「道端で見つけたきれいな花」としてフェイスブックにアップした。すると、たくさんの「いいね!」とともに、ある友人がこれは「ツルボ」ではないかとメッセージをくれた。
名前さえわかれば、後は早い。ネットで検索するとたくさんの写真とともに「キジカクシ科ツルボ属」で日本の在来種は一種だが世界では百種近くあり球根性の観賞用植物として栽培されていること、名前の由来や、栽培の仕方などなど実に多くの情報があふれていた。
その年は、名前がわかったところまでだったのだが、翌年の九月上旬偶然「ツルボ」に再会することになった。僕のお気に入りのランニングコースの鬼怒川の堤防で数百メートルにわたる見事なツルボの群生を見つけた。誰かが栽培しているわけでもなく自然に自生しているのだと思うが、とても見ごたえのあるものだった。近づいて見ると、花を目当てに蝶や蜂、小さな甲虫が集まり賑わっていて、さながら小さな生命たちのお祭り状態だった。早速、花にとまっていた昆虫とともに写真を撮って、再びフェイスブックにアップした。
するとどうだろう、先日とはまた別の、今度は昆虫に詳しい友人からメッセージが来た。「その虫はマメハンミョウとハナムグリで、マメハンミョウの吸蜜は初めて見た。珍しい」
ハナムグリはポピュラーなので、僕にもわかる。名のとおり花粉まみれで花に潜っている、かわいい虫だ。
もう一方、大きな赤い目に黒地に白い縦ストライプの派手な昆虫は「マメハンミョウ」というのか。早速ネットで検索してみた。名前は同じだがハンミョウ科とは別のツチハンミョウ科で、成虫は主に大豆の葉などを食べる害虫で、触れただけで皮膚がただれる猛毒とある。同名で姿の似ているハンミョウ科は毒が無いそうだから、同定を誤ると命に係わる、触らなくて良かった。
ハンミョウの毒といえば時代劇で忍者が毒殺に用いる、あの毒である。道理で凶悪そうな派手な姿なわけだ。人間と同じで「オレと関わると痛い目にあうぜ」と、ファッションで主張している。
植物や昆虫は、世の中に溢れているので興味がないとただの雑草、虫けらに過ぎないけれど名前がわかると、俄然存在感が増して愛しく思えるようになるものだ。実際、僕にとってランニングしながら何年も通過して見ていたはずの鬼怒川堤防のツルボも、名前がわかる前は全く目に入らなかったのだから。
さらにその花の蜜に集う虫たちとなるとなおさらのことだ。しかし、そこには生き物たちの深くて広い世界が広がっていたのだった。
近年、SDGsで生物多様性の保全が叫ばれているが、特別な生き物のことではなく日常の、足元に目を向けて、その名前を知ることが第一だと思い知らされた。
近頃はスマホがどんどん進化していて、未知の動植物でもカメラで映像にすればAIが同定を助けてくれるのでとても便利になった。これからは散歩の際はスマホを活用して、自然観察を楽しみたいと思う。
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